大熊一夫 (日本のMattoの町を考える会代表)
齢80歳にして初めて映画つくりに挑戦しました。といっても、新たに映像技術を究めて映画人の仲間入りを果たしたわけではありません。今回の作品は、いわば料理好きの小学生が握ったオニギリみたいなものです。
僕は50年以上も活字文化の世界で仕事をしてきましたが、実は、音声を伴った映像情報が目と耳から飛び込んでくる、あのド外れた影響力がずっと気になっていました。そこで、人生の最終局面を迎えて、イタリア映画『むかしMattoの町があった』に続く上映運動用の映画を作ろうと思ったのです。
では何を描くか……、もちろん、何十年もこだわってきた「日本の精神病院」に決まっています。
今から48年前の1970年、ジャーナリストの僕は、監獄のような施設つまり精神病院の存在に気が付きました(『ルポ・精神病棟』参照)。ですが、その後の15年もの長きにわたって、あの鬱陶しい施設を、「これは必要悪なのだ」と思いこんでいました。そんな愚かの極みの僕に、1985年、驚天動地の情報がもたらされました。
「イタリアは1978年に精神病院を全廃する法律をつくった」「1980年にトリエステという街は世界に先駆けて精神病院を完璧にやめた」「重い精神疾患の人々も地域精神保健サービスに支えられて自分の家で暮らしている」
これを平たく表現すれば、「精神病院なんか、もういりませんよ」という聞き捨てならない大ニュースなのです。
以来30数年、僕はトリエステに通ってきましたが、トリエステは僕の期待を裏切りません。近年は、トリエステのあるフリウリ・ヴェネツィア=ジュリア州全体の精神保健が、“トリエステ化“されました。つまり130万人が住む州全体で、縛ったり閉じ込めたりのないトリエステ型の明るい地域精神保健サービスが実施されているのです。そしてなんと、「精神病院の時代は終わった!」という名の記念式典が2017年1月に州議会で執り行われました。
トリエステは精神病院をきっぱり閉じて、2019年で39年になります。ひるがえってわが日本ですが、いまだに世界に冠たる精神病棟閉じ込め政策の真最中です。
この対比を描く映画の題名は、しばし思案して、『精神病院のない社会』と相なりました。
上映会にご参集いただける皆様には、僕たちの渾身の労作『討論のしおり』というブックレットを用意しました。映画『精神病院のない社会』の鑑賞は無料ですが、有料のブックレットをお読みいただけますれば、日本の精神保健の弱点が、より明瞭に浮かび上がってくるはずです。
ブックレットの収益は、上映運動の事務費用に使わせていただきますが、運よく余剰金が出ましたなら、会独自の企画に回します。
大勢の皆さまに観ていただき、議論沸騰となれば、無上の幸せです。
映画「精神病院のない社会」。もともとは、「ルポ・精神病棟」のジャーナリスト大熊 一夫を被写体にした、僕とは別人が作る映画になる筈でした。それが、すったもんだの挙句に企画そのものが途中で消えてしまいました。試写会の会場は何か月も前に決まっていましたから、もう後戻りもできません。そこで、映画の作り方なんか何にも知らない僕は、新聞記事を書く要領でエイヤーッと台本を数日で書きあげました。それが「精神病院のない社会」なのです。中身は大まじめですが、正直申して、これはナンチャッテ映画でした。
そして今回、本当に自分一人で台本を書き、自分一人で撮影し、映像編集も自分一人で仕上げて(と考えたのですが映像編集は力及ばず先達におすがりして)、なんとか作り上げました。それが
日本の精神病院の欠陥は、「収容」が儲けの手段になり得ることです。
それは1960年ころに始めた国策でした。国の厚生省は低利融資まで用意しました。医療法の精神科特例が厚生省から発布されました。医師は他科の3分の1でいい……という、あの精神科超軽視政策です。地価の安い辺鄙な場所に造るのも自由でした。精神科医でなくても精神病院の院長になれました。医師でなくてもオーナーになれました。そして、刑務所より居心地の遥かに悪い精神病院が、雨後の筍のように生まれてしまったのです。
日本最大の精神科医の学会「日本精神神経学会」の学会誌1970年1月号には、精神病院の無法ぶりを憂える「学会声明」という長い論文が掲載されています。職員が入院者を殴り殺す病院、理事会が暴力団に乗っ取られた病院、公務員を買収する病院……などなど、信じがたき野蛮病院が、てんこ盛りです。
1970年といえば若輩新聞記者だった僕が、精神病院に潜入して「ルポ・精神病棟」を朝日新聞に連載した年です。でも、悔しいかな、ルポの内容は今日でも色あせません。60年代に大量生産された暴力精神病院の亡霊は、いまだに日本列島をさまよっています。近年、マスメディアを賑わしている神戸の神出病院、八王子の滝山病院、青森のみちのく記念病院など、どう考えたって治療装置と言える代物ではありません。
しかし、これらの精神病院に対して国や都道府県は、「改善命令」というふやけた措置を打ち出すのみ。不良病院を根絶しようという気概が、全くないのです。
それで、冥途の土産に映画を作ってやろう、と思い立ったのです。
本格的な映画つくりには、ふつう、千万円単位のオカネがかかります。しかし、待てよ、と思いました。今は、高性能の映像撮影機能を備えた一眼レフが数十万円で買えます。これを使えば僕一人でも映画は作れるのではないか、と考えたのです。
問題は「映像編集」でした。スマホでYouTubeなら造作のないことですが、長編映画となれば、そう甘いものではありません。Adobe Premiere Proというプロの皆さんが使っているソフトがあるのですが、機能の細かくて膨大なこと、もう一時は、絶望的な気分になりました。
そこで、ドキュメンタリー映画つくりの大ベテラン、小川道幸さんに、おすがりすることに、相成りました。
小川さんは、大阪のパンジー・メディアというインターネット放送で映像制作・発信を指揮している方です。パンジーは、知的障害者の「脱・収容所化」運動で先頭を走る組織です。僕の監獄型精神病棟撲滅運動とは、波長もぴったり合います。
老いた未熟者が作った、きわめて未熟な映画ですが、制作意図は大まじめです。なんでこんなに監獄型精神病院に依存しなければならないのか、縛ったり閉じ込めたりの暴力がつきものなのか。
この映画が皆様の討論の種になれば幸甚です。
伊藤順一郎(日本のMattoの町を考える会副代表)
自主上映運動を開催するにあたり、一言申し上げます。
大熊一夫監督作品「精神病院のない社会」、これは今にいたる日本の精神医療の何が問題であるかを克明に描きだし、それと対比するように、収容型の精神病院をなくした国イタリアはトリエステの考え方を現場の人々の声として紹介しています。多くのみなさまに観ていただき、日本の精神医療とりわけ入院の処遇のリアルな歴史を知っていただきたいのですが、この自主上映会運動、単に映画をご覧いただくばかりでなく、集われたみなさまに、「日本の精神医療はこれでいいのか、どのように変えていくといいのか」という討論をしていただくことを、強く、強く望んでおります。
精神病院は、いまだ閉鎖的な環境にあります。
その中には、生活の香りはありません。
あるのは、管理的な処遇です。生活の苦しみや人生の苦悩にはあえて触れない、症状の消褪のみを目的としているようにしか見えない「治療」です。そして、大声を出して他の人に迷惑をかける、病棟の中で落ち着かない、自分や他人を傷つける恐れがあるなどの状態になると、本人の意志に依らず、精神保健指定医の判断で保護室(隔離室)に入れられたり、身体拘束を受けたりするのです。そうでなくても、自由に外出できない鍵のかかった病棟が、日本の精神病棟の7割弱を占めています。
このような処遇を体験すると、僕だったらきっと、人を信じられなくなってしまいます。よほど、人の気持ちのわかるスタッフがしょっちゅうそばにいて、真摯に接していてくれるのでなければ、「自分に罰が与えられている」「力で屈服させられている」と思ってしまうことでしょう。そのことは、きっと、以後の人生に大きな影を投げかけてしまうのではないでしょうか。たとえ、それが「精神病状態」の真っ只中で行われたとしても、です。
このような得体のしれない圧力と管理を感じさせる精神病棟だからこそ、今でも多くの患者さんが、安心して入院できないのです。
「精神病院のない社会」・・・このような社会を想像すると、そこで行われる「精神病状態」に対する対処の仕方が、精神病院の中で行われることとまったく異なることに気がつきます。そもそも「精神病状態」とは、不安の塊の状態、自分に危機が迫っていると感じてしまう状態です。欲しいのは安心感です。「大丈夫だよ」というメッセージです。穏やかにそばにいてくれる人です。「ゆっくり休んでも悪いことは何も起こらないんだ」と思える環境です。
ACT(多職種アウトリーチ―・チームによる包括的な地域生活支援活動)の活動をしていると、こういう状態への寄り添いは、もうひと踏ん張りすれば、日本でも、地域社会の中で可能になると思えます。SOSを受けとめて、すぐに動けるアウトリーチチーム、危機の時に数日泊まることができる食事つきの居心地のいい部屋、いつでも安心感を送る届ける体制がとれる十分な人数のスタッフ、少量の抗精神病薬、いつもの地域生活とつながっている感覚が持てる環境、そのようなものを十分に地域社会のなかに整備できたら、患者さんは生活の場のなかでしっかりと回復できる。そして、重装備の精神病棟はいらなくなることでしょう。
トリエステの実践や、フィンランド西ラップランド ケロプタス病院の実践は決してはるか遠くのものではない、そんなふうにも思えます。
しかし、「現状」を変えるのは容易ではない。技法としては今でも実現可能なことでも、そのことの安定した運用には、精神保健福祉法や診療報酬など、今の精神病院の運用を維持している制度を変えていく必要があるのです。そして、ものごとは、多くの皆さんの熱意と行動がなければ動きません。
変化のために、私たちに必要な行動は何か?そのことをみなさんに考え続けていただく、この上映会は、そんな自主上映会にしたいのです。そして、それほど遠くない未来に、新しい地域精神医療の実現が可能になる、そんな希望を共有したいのです。
多くの人々の参加をお待ちしております。